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「知的障害児教育の父」石井亮一とは

慶応3年に生まれ、幼いころから秀才といわれた石井亮一。亮一は明治24年に起こった濃尾大震災をきっかけに、親を失った女児を対象とした滝野川学園を創設し、知的障害児の教育に生涯を捧げました。そんな石井亮一についてくわしくご紹介します。

病弱ゆえに閉ざされた科学への道

石井亮一

石井亮一は、1867年(慶応3年)5月25日に佐賀藩士 石井雄左衛門の6男として佐賀県佐賀市水之江に生まれました。病弱であったことから藩医である大須賀家の養子となりますが、養父である大須賀氏が養子入りから10日程で亡くなってしまったことから、石井家で成長します。

当時、中学は13歳にならないと入学することができませんでした。しかし、幼いころから秀才と言われた石井亮一は、12歳の時に13歳と年齢を偽って出願し、合格します。邦文科に進学した亮一は、佐賀中学校内に洋楽所が設けられたことを機会に、英文科に転籍します。在学中、寄宿舎で過ごす中で、科学研究や英語に興味を持つようになりました。

学業が優秀で、旧藩主鍋島家の奨学生に選ばれた亮一は、工部大学校(現在の東京大学工学部)で科学を専攻したいと希望しましたが、身体検査で不合格となります。しかし、科学者になる夢を諦められなかった亮一は、アメリカのコロンビア大学に留学することを目標とし、英語を習得するために立教大学に入学します。

しかし、在学中、聖公会監督であるチャニング・ウイリアムズ師と師弟関係を築いた亮一は、教えに感銘を受けて聖アンデレ教会で洗礼を受け、キリスト教に入信します。キリスト教の『信仰・希望・愛』の三徳は、後の人生に大きな影響を与えました。

立教大学を卒業後、留学のために身体検査を受けますが、この身体検査でも不合格となった亮一は渡米を諦めます。そして、母校である立教大学の付属校であった立教女学校で教諭として働き出しました。

濃尾大震災孤児を集めて孤女学院を開設

立教女学校で働く亮一は、24歳の時に教頭となり、学校の制度や教育の改革などを行いました。また、立教女学校の教頭として勤める傍ら、孤女教育施設である「東京救育院」の運営にも携わります。

1891年、立教女学校の教頭として在任中、濃尾大震災が起こります。この濃尾大震災で親を失い孤児となった少女たちが、人身売買されているということに衝撃を受けた亮一は、「女子に生の尊さを知らせずして何が女子教育だ」と孤児の救済に当たります。

被災地から20名の孤児(孤女)を引き取った亮一は、私財や聖公会からの義援金を元に、聖三一孤女学院を創設します。

この聖三一孤女学院は、家庭的・経済的に恵まれない女児に教育を受けさせる「女学校」という目的で作られたもの。当時の孤児救済団体は概ね6歳以上の孤児を対象としていたのに対し、聖三一孤女学院は孤児救済団体に入る資格がない孤児の受け入れを基本とし、幼稚園・小学部・高等女学校部が設置されました。

亮一は、立教女学校の教頭として勤務する傍らで、おむつ交換やミルクを飲ませたりするなど、聖三一孤女学院の子どもたちの世話もしていたとされています。

そして、濃尾大震災で引き取った女児の中に、白痴(知的障害)のある「太田徳代」がいたことによって、亮一は知的障害児に対する教育に注力していくことになります。

当時、知的障害に対しての研究は全く行われておらず、重度の知的障害がある子どもは隠されたり、育児放棄されるなど、差別や偏見の対象とされていました。そんな中、聖三一孤女学院は白痴の子どもを受け入れる複合教育施設と変化します。

アメリカの学びを滝野川学園へ

石井亮一

1896年(明治29年)、白痴の教育を研究するため、亮一はアメリカに渡ります。当時のアメリカでは、知的障害児の学校が設立されていた時代でした。フランスからアメリカに渡ったエドワード・セガンによって、生理学的教育法を受けることで、知的障害児への教育が可能となることが証明されていました。この生理学的教育法は、身体活動を含めて教育を行うというものです。

亮一は、この生理学的教育法をセガンの未亡人から学んだほか、ヘレン・ケラーとも会っています。約7か月の渡米中に、アメリカの知的障害児の学校を訪問するなど、最先端の教育現場や文献から知的障害や特殊な障害についての知識を学びました。

アメリカから帰国後、聖三一孤女学院を、所在地である東京都北区滝野川に因んで「滝野川学園」と改称します。この滝野川学園は、日本において初めての知的障害者のための教育機関となりました。

滝野川学園では、当初12歳以下の白痴の女児を募集しましたが、1899年には男子が3人、女子が1人と男子が多くなっています。1900年に第三次改正小学校令によって知的障害児の就学義務が免除される中、1901年には入園希望者が200名を超えるなど、滝野川学園は知的障害児のための数少ない教育機関として、全国から人が集まりました。

亮一が残した言葉として、

「白痴教育が国家に利益であろうか、利益でないだろうかといふことは私の念頭には起こりませぬ」

「信仰と愛、そして最新の科学の力、この三者なくして到底この尊い使命を全うすることはできません」

というものがあります。

滝野川学園では、知的障害がある子どもの保護や教育を行うだけでなく、就業場所の確保を行いました。また、学園の財政基盤を確立するために農場や印刷所といった事業部門を設立したほか、保母の養成所や研究所も設立するなど、総合福祉施設と変化しています。

結婚から新たなスタート

石井亮一

亮一は一生独身で過ごす予定でしたが、未亡人であった筆子と36歳の時に結婚します。

筆子夫人は男爵渡辺清の長女で、東京女学校を卒業し、欧州に留学経験のある女性。彼女は小鹿島果との間に3人の女児を授かりますが、長女は白痴と診断され、二女は1年で亡くなっています。夫の果も肺結核で亡くなったため、2人の娘を連れて渡辺姓に復帰し、クリスチャンとしての活動に注力します。

2人の娘が滝野川学園に在籍し、お互いに聖公会のクリスチャンであった亮一と筆子夫人は、1903年に麹町聖愛教会で結婚式を挙げ、滝野川学園を共同で運営します。

滝野川村から北豊島郡西巣鴨村庚申塚に移転した滝野川学園は、知的障害児の教育と女子の職業自立のための複合施設として、新たなスタートを切ります。

試練からの復活 今へと続く社会福祉法人

順調に運営されていた滝野川学園ですが、1920年に、園児の火遊びにより6名の園児が死亡します。資金繰りも悪く、学園の閉鎖を検討する亮一ですが、大正天皇の皇后である貞明皇后をはじめ、さまざまな人物からの支援により、谷保に新園舎を建設し、1928年3月に国立市谷保に移転しました。

事業の安定のために財団法人化した滝野川学園は、渋沢栄一が理事長に就任するなど、さまざまな人から支援を受けます。

それでも財政状態は厳しい状態が続いた滝野川学園ですが、業績や事業への評価は高く、1934年、亮一は日本知的障害者福祉協会の初代理事長に就任します。

亮一は多額の負債を抱えつつも、1937年に70歳で亡くなりました。しかし、知的障害者支援の基礎をつくったともいえる滝野川学園は、現在も、社会福祉法人として運営され続けています。

参考:http://www.takinogawagakuen.jp/

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